寺山修司展に行って考えたこと

寺山修司展に行ってきた。
言葉とは。
たとえば「友達」という言葉に含まれた概念は人によって異なるのに、そんなあやふやな概念を内包した言葉を連ねたものを他人とぶつけ合うことを「会話」として成立させようとしていることが不思議。
そもそも「会話」をどんなものととらえているかすら人によって違う。
自分の考えていることを言葉を使って相手に伝えて、それが伝わっていなくて悲しんだりしてしまうけど、使っている言葉の中にもそれを説明する言葉が含まれていて、それを果てしなく分解して理解していく作業の中で生まれる他人とのズレを埋めるのは不可能だと思う。
においを嗅ぎ合って交流している動物のほうがよっぽど幸せな気がする。
何か無神経なことを言ってバッシングされていた人の言葉も、きっとわたし達の住む世界の言葉に訳したら伝わってくるものも少しはあるのではないか。
その人が発する言葉の背景に広がる風景があるのだろうけど、みんな人生への志や向き合い方や見ているところが違い過ぎる。
なのに、いまだにみんな同じ言葉を同じ意味だと思って使っているのは滑稽だなと感じる。
苦しんでいる地下アイドルは「運営」という言葉が内包するものを瞬時に理解してくれる、話が早い吉田豪さんにDMを送りたくなるんだろうなと思う。
言葉が通じない異国の地で追い詰められた人の最後の光って感じだな。