手は精神の出口

一人でいると押し寄せる感情の波に飲み込まれて心がどこかにいってしまいそうになる。
と書き出して、このブログは自分が情緒不安定だということを手を変え品を代え世間に流布しているようなブログだなぁ…と思うけど、わたしの人に伝えたい人生のテーマは不安との戦いなのだからいいか…と思う。
ただ、このブログを更新した後は、荒くれた心は静かにさざめく美しい海となっている。
素晴らしい。
で、ブログの更新と同じようにわたしの感情の波の防波堤となってくれるもののひとつが最近始めた刺繍です。
図工の授業で何かを作る時、何を作りたいのかも決まらないまま見切り発車で製作を始め、惰性で手を動かし続けてなんとか提出できるギリギリのラインの何かを出来上がらせていた。
その何かは自分の計画性のなさと根性のなさ、発想の貧困さを具現化したもののようで、 それを見て生まれる(今回もダメだったなぁ)という悲しみともあきらめともつかない薄暗い感情を受け入れるまでが図工の授業だった。
小学生の図工デビューから中学生の図工からの卒業まで、何十回もそれを繰り返して自尊心をすり減らしていた。
でも、今やっている刺繍は違う。
自分で絵柄を決めたら自分で色とりどりの刺繍糸の中から好きな色を選んで布に刺して、完成を目指す。
大きな面を埋める時はひたすら同じ作業の繰り返しで、もう無理…と思ったところからのあと一回!を踏ん張る、筋トレのような精神状態でやる。
それで完成した刺繍は思った通りの仕上がりではなかったりするけど目を細めてぼやけた視界で見るとイケてたりして、わたしの心と感性と根性の結晶として全力でわたしに「お疲れ様!」と労いの言葉をかけてくれているように見える。
心が満たされる。
刺繍について調べていたら、刺繍協会みたいなところの会長みたいな人が「手は精神の出口」ということを言っていた。


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手じゃない場所が精神の出口な人もいるかもしれないけど、 刺繍をしている人が手を精神の出口と表現するのがしっくり来た。
精神の出口を増やしたい。