自分で選択する

「一日のなかで人は九千回選択している。よりよい選択を繰り返していけばいいだけ」という話を聞いた時、「なるほど、確かに…やる、やらないの二択じゃない時もあるだろうけど、できるだけいい選択ができるよう意識していこう」と思った。迷った時にどっちがいいか選ぶとか、簡単すぎて楽勝だなと思った。

でも、いざ意識してみると「コーヒーと紅茶どっちにするか」とか「右と左どっちに行くか」とか、そういう選択らしい選択だけではなく、例えば「コップを置く」という行動も「丁寧にコップを置く」「乱暴にコップを置く」の自分のできる方法の二つから選択しているんだと気づいた。

休みの日にず~っとだらだらするのはとても楽しいけど、なんとなくの気持ちのまま部屋が暗くなっていくと憂鬱になる。十時には起きていたんだし、シャワーを浴びて出かけていたら今頃はどんなに満ち足りた気持ちで夜を迎えていたんだろう…と過ぎ去った今日の無限の可能性を思って暗くなる。

昔、女優の松嶋菜々子がインタビューで「休みの日、だらだらするって決めた日は、もうだらだらする日!って決める。そうすると、だらだらしていただけでも満足感があるんです」と話していた。「自分で選択することは大事」という言葉はよく聞くけど、そういう行動も選択に含まれるとは考えずにいた。

そして今、「松嶋菜々子」と打ちたかったのに、わたしのパソコンは「松島奈々子」と変換した。選択を意識していなかった頃のわたしだったら、この漢字は間違っているということに気づいても「めんどくさいから後で正しい漢字を調べて打ち直そう」と思ってやり過ごしていた。本当は今調べて打ち直したほうが楽だとわかっているのに。でも「めんどくさいから後回しにする」ということを選んでいた。

実際「多分こうしたほうがいい気がするけど、めんどくさいからこのままにしておこう(もしくは後でやろう)」という気持ちに起因する仕事でのミス、人からの信頼の失い、コップの倒れなどは散々経験してきた。でもその行動を直さなかった。めんどくさいから。

物心ついた頃からそんな調子で生活してきたので、いつからかダメ人間としてのアイデンティティーが確立し、「わたしはダメ人間ですからね」という開き直った気持ちでいたふしがあった。

でも実際に何かをめんどくさがったことが原因の失敗、それによる悲惨な現実に直面すると普通に自己嫌悪に陥り、人はこんな気持ちになるために生まれてきたんじゃないと思うほどに惨めで辛い状態に成り果てる。

わたしのダメさは三十一年という年月をかけて、もはやよりよい選択を意識し続けていったところでコップを倒せるところまで来ている。しかし、そんなダメさは絶望的なほどには嫌いじゃなくて容認できる。「めんどくさいからこうする」は本当は常に明るく前向き(わたしなりに)生きていたいわたしを後悔させて憂鬱にさせる悪なので、選択肢から外す方向で頑張りたい。