幸せとは

「『幸せ』になりたい」という願望。
しかし、「幸せ」誕生の歴史でいうと、自然に生まれてくる感情に対して「この感じ、幸せと呼ぼう!」と決まったはず。
昔の人は幸せになりたいなーと思って幸せに向かうんじゃなくて、なんだかいい感じだった時にこれが幸せかーと思ってたんだとしたら素晴らしいしうらやましいな。

人は幸福か不幸かでいったら幸福がいいのに、昔の人の「感情先で幸せ認識システム(幸せの発動するタイミングは無限)」に対し、今は「(これが幸せという定義はうっすらとあって)それになったら幸せ」という感じが多い気がする。
もしわたしが外国人に日本語を教えていて「今日、エロい夢を見た。これが『幸せ』ですか?」と聞かれたらそうは答えない…と思ったけど、その人のなかでどんな感情が生まれているかはわからないなー。
昔と今では「幸せ」の意味っていうか用法から違うんじゃないかと思う。
「幸せ」が生まれた頃は人類も「あげぽよ」とか「インスタ映え」とかみたいに、ふざけた感じで使ってたんじゃないだろうか。
でもいまやこんなに重鎮になってしまい…
「幸せ」誕生当初から知ってる人が幸せの現状を見たらびっくりするかもしれない。
駅前で歌っていた頃から知っている人が見るゆずの初の紅白みたいな感慨深さがあるかもしれない。
ゆずは謙虚な姿勢だけど、果たして「幸せ」はそうだろうか。
「あげぽよ」を見て「俺もあんな頃があったなあ」と思っているだろうか。
「あげぽよwww」と思っているタイプのウザい性格かもしれないし、幸せという言葉の重みに疲れて本当の自分がわからない、辛い頃の尾崎豊のような状態かもしれない。
というようなことを延々と書いていたけど、わけがわからなくなった。
これを書いていて楽しかったけど幸せだなとは思わなかった。
こういう時間は幸せだなーと思うけど。
楽しいと幸せというのはドラマが好きですっていうのと映画が好きですっていうのは映画が好きですっていうほうが高尚っぽく聞こえる感じの差か。
昔は幸せは感情だったんだろうけど、今は幸せは概念って感じなのかな。
幸せと楽しい幸せな人生より楽しいことが多い人生を目指そうと思う。

と書いて、幸せの意味を調べたら、その人にとって望む状態であること、とあった。
幸せのパブリックイメージとか使い方そういう感じじゃない!と思ったのと、自分で努力しないといけないスタイルじゃん!と思った。
そして自分が何を望むのかがわかってないといけないのか。

あなたの食卓になりたい

辛いな、と思った時、土をちょっとさわってみて乾いているのを確かめて、水を少しまいてあとはほうっておく、くらいの気分でやれる賢い人間になりたい。
土を掘り返して乾いた原因を探そうとするけど見つからず、枯れた草を抜こうとしても抜けなくて疲れる。
ラジオを聞きながら松屋の限定メニューを食べるという時間がわたしの変わらぬ幸せで、だから松屋のことはずっと好きでいたい( 旦那さんができたら、作った料理を「松屋の新メニューにできるよ!」とほめて欲しい )と思っていた。
それなのに、ある日わたしが座っている席からドアが開いているトイレが見えて、なんとなくフロア全体がトイレの空間と一緒になったように感じて、そしたら今まで気になっていなかった机の汚れも気になってきて、それを煌々と照らす明るい電気の白い光の無神経さも気にさわって、自分の松屋への愛が薄れていくのを感じた。
でも
わたしの心の愛の炎は消えていなかった…つづく

次週、吉野家からの刺客!

「あなたの食卓になりたい 松屋」って思いつめた女みたいなフレーズなのに男性から愛されている松屋すごい。

何を言いたいかまったくわからない。

寺山修司展に行って考えたこと

寺山修司展に行ってきた。
言葉とは。
たとえば「友達」という言葉に含まれた概念は人によって異なるのに、そんなあやふやな概念を内包した言葉を連ねたものを他人とぶつけ合うことを「会話」として成立させようとしていることが不思議。
そもそも「会話」をどんなものととらえているかすら人によって違う。
自分の考えていることを言葉を使って相手に伝えて、それが伝わっていなくて悲しんだりしてしまうけど、使っている言葉の中にもそれを説明する言葉が含まれていて、それを果てしなく分解して理解していく作業の中で生まれる他人とのズレを埋めるのは不可能だと思う。
においを嗅ぎ合って交流している動物のほうがよっぽど幸せな気がする。
話が飛躍するけど、何か無神経な発言をしてバッシングされていた人の言葉も、きっとわたし達の住む世界の言葉に訳したら伝わってくるものも少しはあるのではないか。
発するほうがそれで伝わると思っている無神経さが問題なのかもしれないけど。
その人が発する言葉の背景に広がる風景があるのだろうけど、みんな人生への志や向き合い方や見ているところが違い過ぎる気がする。
なのに、いまだにみんな同じ言葉を同じ意味だと思って使っているのは滑稽だなと感じる。
苦しんでいる地下アイドルは「運営」という言葉が内包するものを瞬時に理解してくれる、話が早い吉田豪さんにDMを送りたくなるんだろうなと思う。
言葉が通じない異国の地で追い詰められた人の最後の光って感じだな。

寺山修司展に行って考えたこと

寺山修司展に行ってきた。
言葉とは。
たとえば「友達」という言葉に含まれた概念は人によって異なるのに、そんなあやふやな概念を内包した言葉を連ねたものを他人とぶつけ合うことを「会話」として成立させようとしていることが不思議。
そもそも「会話」をどんなものととらえているかすら人によって違う。
自分の考えていることを言葉を使って相手に伝えて、それが伝わっていなくて悲しんだりしてしまうけど、使っている言葉の中にもそれを説明する言葉が含まれていて、それを果てしなく分解して理解していく作業の中で生まれる他人とのズレを埋めるのは不可能だと思う。
においを嗅ぎ合って交流している動物のほうがよっぽど幸せな気がする。
何か無神経なことを言ってバッシングされていた人の言葉も、きっとわたし達の住む世界の言葉に訳したら伝わってくるものも少しはあるのではないか。
その人が発する言葉の背景に広がる風景があるのだろうけど、みんな人生への志や向き合い方や見ているところが違い過ぎる。
なのに、いまだにみんな同じ言葉を同じ意味だと思って使っているのは滑稽だなと感じる。
苦しんでいる地下アイドルは「運営」という言葉が内包するものを瞬時に理解してくれる、話が早い吉田豪さんにDMを送りたくなるんだろうなと思う。
言葉が通じない異国の地で追い詰められた人の最後の光って感じだな。

直面していない悲しみを自分の切実な辛さに変換する力

直面していない悲しみを自分の切実な辛さに変換する力がある。
なんでだろう。嫌だな。
同じくらい、しょうもない妄想をする力もある。

~今日、出かけた先の道の駅での妄想~
働いているビルの管理室にいるイケメン(誰が見てもかわいい顔してると認めるような顔)とドライブデートすることになり(経緯は割愛)、道の駅へ。
ちなみに、「ドライブデートで道の駅に寄る」ということは、お互いの庶民的な感覚が一致しているということ、一大テーマパークではないような場所でも笑い合える関係になりそうな予感を示唆している。

イケメン「これ、おそろいで買いませんか?(なんかでかくてシブい、いい音が鳴る鐘のキーホルダー)」
わたし「えー!…でも、意外といいかも」
イケメン「買っちゃいましょう」
わたし「ふふ、いいですね(チャラそうに見えるけど、意外と古風なんだ…)」

後日、職場で…
わたし「おはようございまーす(あ、今日はイケメンさん出勤なんだ)」
イケメン「あっ!(鞄から何かを探す)」
わたし「?」
イケメン「ニコッ!ゴーン…(嬉しそうな笑顔で取り出したおそろいの鐘を鳴らす)」
周り「!?なんだこの音!?」
わたし「…もーっ!(そそくさと逃げるがまんざらでもない)」
~こうしてふたりの毎日は続く…~

ということを考えていた。

これと同じ調子で、暗いことや、身近な人の悲しみを思ってしまうと辛い。
悲しい。気が狂いそうになる。
また、わたしの妄想は色恋沙汰一辺倒ではなく、深夜ラジオ好きの同僚とラジオの話をしていたら、通りがかった弊社社長が常連のハガキ職人であることを告白してきて一生の忠誠を誓う、また、素人向けドッキリ番組の仕掛人として弊社休憩室の様子を盗み見していた伊集院光が、わたしと同僚の伊集院のラジオへの愛を語っているさまに直面、仕掛け人のはずがリスナーの愛に触れ、深夜ラジオへの思いを一層強めることとなった、等がある。
上記の妄想で嫌な気分になるのはイケメンだけだし言わなきゃいいけど、暗い妄想や感情は自分を直撃する。
心が弱い人々はどうしてるんだろう。
宗教、マルチ商法などに傾倒するしかないのだろうか、と思うけど、それはわたしの救いではないことはわかる程度の理性と自分への理解がある。
そんな自分が好きだけど、辛い。
もうめちゃくちゃ辛いから、筋トレとか腸内環境を整えるとかをするしかない。
筋トレにハマっている人も宗教やら何やらにハマっている人と同質のイカれ方をしている気がするけど、「ウザい」以外の軽蔑のされ方はしないからいいなと思う。
第二の脳と言われる腸の環境を整えて、心を前向きにしたい。
起こっていない嫌なこととか予想の辛いこととかでがんじがらめになるのはやめたい。

家に吉沢亮がいると思い込む病気

道でスケボーに乗ってる人がいたので(クソ邪魔だな)と思ったけど、振り返った顔が北村匠海のようだったので(GO!)と思った。

中野ブロードウェイに行ったら、志磨遼平のような髪型(長髪)で、ワインレッドのてろっとしたシャツに黒のスキニー、それに昔ながらの茶色い便所サンダルを履いた長身細身の色白がいた。
お前は量産型だな、と思ったけどそういうベタなのがいいんだよ、とも思った。
上の発言は下品であるが、こういうことを思ってしまう。

人から頼んでいただいた刺繍があと少しで出来上がる。
刺繍糸の新しい色を買い足す必要があったので、起きたままの格好にビーチサンダルを履き、マスクをして自転車で池袋まで行った。
ほぼ完成に近づいた刺繍に売り物の糸を合てて見て(どの色がいいかな…)と真剣に選んでいる時、わたしのキテレツな風貌、それに対し正気でないと作れなさそうな手元の刺繍を合わせて見た他人が(変わり者の天才刺繍師なんだな)と思ってくれないかなと考えた。

相変わらず突然の不安に襲われる。
しかも、不安の種は他人から見たらバカバカしいとか杞憂だとか思われるようなこと(わたしが他人だったらそう思う)だったりする。
ノイローゼである。
不安になるのは大抵暇な時なので、心から、精神が落ち込んだ人は強制的に封筒を作らされる(内職をやらされる)世の中になって欲しい。
達成感もあっていいと思う。
政治家になってこの制度を広めたい。

心の病気が増えている昨今、心の異常をポジティブにとらえる風潮、それに流された民衆が都合のいい病気にかかっていく空気できることを願っている。
家に帰ると吉沢亮(美形)がいると思い込む病気ができて欲しい。
会話の端々に、この人は自分の家に吉沢亮がいると思っているのではないか?という様子が見られる以外は普通のいい人。
以前は仕事にも後ろ向きなところがあったけど、家に吉沢亮がいると思い込むようになってからはすこぶる調子がいい。
それって最高だなと思ったけど、「家に吉沢亮がいる」というのは自分の嘘だという自覚がある限り、心のなかに「やましい、むなしい」というマイナスな感情が芽生え、むしろ心に悪い。
でも、いよいよ本当に「家に吉沢亮がいる」と思い込む人間になってしまったらもう今のわたしとは気持ちを共有できない別のわたしに変化してしまうということなので、それは違う。
だからこの考えは却下だな…と思っていた矢先、「ハウルの動く城」を見た。
ハウルは素晴らしい魔法使いで、「家を建てる」と言って魔法陣を書いて何かを念じると、途端にぼろぼろだった壁や床は新しくなり、ソファやテーブルなどの家具まで出現していた。
(これはどういう原理なのだろう…)と思ったけど、きっとハウルはここまでの魔法使いになるためにとてつもないイマジネーションの鍛練をしてきたのだろうと理解した。
ハウルが出現させたソファやテーブルは、たとえ魔力が強かったとしても、ぼんやりとしたイメージで作れるようなものではないように見えた。
「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」という説を聞くけど、ハウルのマニュアルも見ずに魔法陣を書く手つきを見て、ただぼんやりとしていてなれるようなものではないと感じた(そういうのも含めて、ハウルは優秀な魔法使いみたいなのかもしれませんが)。
ハウルは本当にかっこいいな…)と思って、現実にもハウルみたいな人はいるんじゃないだろうかと考えた時に、いいライブを観た時、本人の演奏や歌がつくる世界に包まれたような気持ちになって感動したことを思い出した。
そういう人は魔法使いみたいだな…と思って、わたしのぐらついた心では家に吉沢亮がいるとは到底思い込めないし、そんなしょうもない妄想によりかかる精神は捨てようと思った。
その先にあるのが現実の吉沢亮との華々しい生活かもしれない…

手は精神の出口

一人でいると押し寄せる感情の波に飲み込まれて心がどこかにいってしまいそうになる。
と書き出して、このブログは自分が情緒不安定だということを手を変え品を代え世間に流布しているようなブログだなぁ…と思うけど、わたしの人に伝えたい人生のテーマは不安との戦いなのだからいいか…と思う。
ただ、このブログを更新した後は、荒くれた心は静かにさざめく美しい海となっている。
素晴らしい。
で、ブログの更新と同じようにわたしの感情の波の防波堤となってくれるもののひとつが最近始めた刺繍です。
図工の授業で何かを作る時、何を作りたいのかも決まらないまま見切り発車で製作を始め、惰性で手を動かし続けてなんとか提出できるギリギリのラインの何かを出来上がらせていた。
その何かは自分の計画性のなさと根性のなさ、発想の貧困さを具現化したもののようで、 それを見て生まれる(今回もダメだったなぁ)という悲しみともあきらめともつかない薄暗い感情を受け入れるまでが図工の授業だった。
小学生の図工デビューから中学生の図工からの卒業まで、何十回もそれを繰り返して自尊心をすり減らしていた。
でも、今やっている刺繍は違う。
自分で絵柄を決めたら自分で色とりどりの刺繍糸の中から好きな色を選んで布に刺して、完成を目指す。
大きな面を埋める時はひたすら同じ作業の繰り返しで、もう無理…と思ったところからのあと一回!を踏ん張る、筋トレのような精神状態でやる。
それで完成した刺繍は思った通りの仕上がりではなかったりするけど目を細めてぼやけた視界で見るとイケてたりして、わたしの心と感性と根性の結晶として全力でわたしに「お疲れ様!」と労いの言葉をかけてくれているように見える。
心が満たされる。
刺繍について調べていたら、刺繍協会みたいなところの会長みたいな人が「手は精神の出口」ということを言っていた。


f:id:nozomigatakai:20180616082924j:plain

手じゃない場所が精神の出口な人もいるかもしれないけど、 刺繍をしている人が手を精神の出口と表現するのがしっくり来た。
精神の出口を増やしたい。