公園でのこと

近所の大きい公園に行ったら、人々が各々好きなようにしていて心が洗われた(前もこんなこと書いたけど)。

ただベンチに座っているおじいさん、本を読んでいる男性、ハイキングの装備で友人とおしゃべりしながら歩く女性、おしゃれなウェアで歩く人、虫取り網を持っている子供、ヒロミの長男に似た男の子とかわいい女の子のカップルなどがいてみんな楽しそうにしていた。

わたしは普通の格好で来ている30代の単身女性なのでどこの層にも当てはまらなかった。男の子が「魚の死体ゲッツ!」と叫んでいたり、自転車で坂を下りながら「ここから加速していこうぜ!」と言っているのが面白かったので近寄って行きたかったけど、わたしのようなあまり公園にいないタイプの人が変な動きをすると噂になってしまうかもしれないと思ってやめた。これからは運動してますという格好で来て、子供の言っていることがよく聞こえるルートを探してそれに沿って歩こうと思う。

池沿いの道を歩いていたら、前を歩くスポーツウェアの女性の歩くのが遅くて詰まってしまった。抜かしたりできる幅の道じゃなかったので(気まずいな…)と思っていたらトカゲが出てきて二人でビクッとなって、同じ空間で同じことを感じたことに幸せを感じた。公園に来る前は鬱々としていて「日高屋の冷凍餃子30個を買って全部水餃子にして一人で食べてやることが何よりの幸せなんじゃないか」と思っていたけど、「この人と餃子を食べたい」と思った(生身の人間とまともな接触をしていない弊害)。「日高屋の冷凍餃子を水餃子にして15個ずつ食べませんか?」と誘いたかったけど、スリムクラブの漫才に出てくる人みたいになってしまうのでやめた。

睡蓮でいっぱいの池を見て「密だ!」という言葉が浮かんだ。と同時に、もしわたしがナイツの塙の弟子だったとして、そんなコメントをするわたしの浅はかさを塙はどう思うか…と考えて、これからそういう軽率なツッコミみたいなことをするのはやめようと思った。何故そう思ったかというと、昨日ナイツの塙のYouTube(好き)を見て、塙の弟子に対する態度がかっこいいと思ったからです。塙は弟子のことを「あなた」と言っていた。江古田に住んでいると噂の塙とわたしの家はまあまあ近いと思うとやっていけそうな気がする。

少し進むと、向こうから作家みたいな男性と訳あり美女が並んで歩いてきた。その人達と道を譲り合ったりするのが嫌だったので脇の階段を登って歩いていると「香水」という曲が聞こえてきた。見ると黒いマスクをした男子小学生三人組がその曲を流しながら自転車に乗っていて、「かっこつけてるな」と思った。あの曲は自発的に聴いたわけじゃないけど何故か知ってる流行歌感がすごくて、改めてわたしは女子高生どころか若者でもないのだという実感が湧く。

その先の小さい池でおじさんがタコ糸で何かを釣ろうとしていた。脇にチップスターの筒があったのでそれが餌なのかなと思っていたら釣った何かをその筒に入れていて、池の中を見るとザリガニがいた。おじさんの風貌は耳をすませばの雫のお父さんみたいで、シャツにスラックス、ちゃんとしたおじさんの象徴とも言える、ベルトのところも銀色の時計をしていた。少し離れた池では子供達もタコ糸でザリガニを釣っていて、子供達と同じようにザリガニ釣りに興じるおじさんの事情が気になったけど、別に事情もなくザリガニを釣るのが好きなだけだったらそれもいいなと思った。

そろそろ帰るか、と道を戻ると、マスクをした女子高生二人組が大笑いしながらアヒルのボートに乗っていて、ウィズコロナ時代のマジックミラー号みたいに見えた。

せっかく公園に来たし、ベンチに座るみんながやっている「家でもやれることをやる」をやってから帰るか…とベンチでYouTubeを見ていると、小学生の男の子がやってきて、「今何時ですか?」と聞いてきた。気分は不審者だったので声をかけられると思っていなくて驚いたけど、声をかけても怪しくない風貌だったのかなと思って嬉しかった。

今日のこと

体のまわりをほのかな憂鬱の香りが浮遊しているような一日だった。

昨日ぶっ続けでGTOのドラマ(全12話+スペシャル1話)を見ていたので少なくとも13回はPOISONをまともに食らっており、わたしの心の波長はPOISONの感じと合わないのでそれで具合が悪くなったのかもしれない。一回二回のPOISONは心のカンフル剤になるかもしれないけど、無理してPOISONを摂取し続けることはよくないということがわかった。

本来低いテンションを保って落ち着いているわたしの心が13回のPOISONで強制的に覚醒させられ、疲れておかしくなっていた。それを心地いい調子に戻したかったので、キリンジの曲を流したらゆったりと落ち着くことができた。自分の気分に合った音楽は練馬区の33歳が住むには狭い部屋に流れる空気もキラキラとさせてくれる。

三月の終わりからリモートワークがずっと続いていて、一度も誰とも会っていない。友達や家族と会っていないのもさみしいけど、平日8時間週に5日、人と一緒に働いて「対人間モード」だった自分がほぼ消滅してしまったことが怖い。どんなに憂鬱な時でも出社してしまえば人と接することができたのは自信というか(大丈夫だった)と思う根拠になっていたけど、それがなくなってしまったので最初のうちは(😭)となっていた。友達と電話してもしょうもない話はできないだろうなって思って電話もしてなかったけど、勇気を出して電話したらしょうもない話ができたので元気が出た。ありがとう。

今日、(なんかもうダメだな)ってなっていた時に会社の人とテレビ電話を繋いだら、20年引きこもっている人みたいな気持ちだったのが、そんなに嫌いな状態ではない自分の時の気分になれた。

それぞれの文章がどう繋がってるかわからないかもしれないけど、そういうことです。

憂鬱だったけど、やすともとブラマヨが話してるの面白いなーとか、水川かたまりどうかしてて好きだなとか、東野幸治はモラルとかを超越してるなとか、冷製パスタすごいおいしくできたなとか、本当にすみません…とか思う瞬間もありました。

あと、ツイッターで芸能人フォローしてたの全部やめてみたけどどうしよう。

じいさんの路上酒盛りカルチャー/最近の感じ

わたしが住む地域(練馬区)ではじいさん達が集まって朝から駅前で酒盛りを楽しんでいる。出勤途中にその光景を見て「俺も絶対にあの人達みたいになるぞ!」と自分を鼓舞する人はいないだろうし、「あの人達を見習いましょうね」と子供に手本として見せる人もいないと思う。実際、じいさん達が使っていたベンチは権力を持った何者かにより撤去された。でもまだじいさん達は酒盛りをしている。じいさんの日中路上酒盛りカルチャーを葬り去りたい練馬区と、酒さえ買えればどこでもやれる、というじいさん達の心意気の攻防は続く。

わたしはいつもそのじいさん達がいいなと思って見ているけど、ちゃんとしたサングリアがあるような店に予約して行きたい、とも考えてしまう。何がやりたいのかわからないからブレている。

・・・

差別とか偏見をなくして多様性を認めよう!と人種や性別や目立ったものについては厳しく取り沙汰す風潮の中で、顔の美醜とか頭髪のこととか松居一代の動画とか(名前出すのは失礼だけど、放送禁止用語は丁寧に取り扱うのにいつもの調子じゃない人の様子を面白がるテレビの感覚にうんざりした)、そういうのを笑う概念は残ったままで放置されてるのを見たりすると(なんなんだろうね)と思う。

ツイッターを見ていて、全然共感できないつぶやきに6万くらいのいいねがついていると(この世に気が合わない人がこれだけいるんだな)と思ってうんざりする。だけどいいねをした人達は全部同じ感情でそのツイートを見ているわけではなく6万種類の感情があるわけだから、別にその6万人と気が合わないわけではない。ということがわからなくなる。

誰かに伝えたくて何度も書き直したものもテキトーに書いたものも日常のことも大事なことも全部同じフォントで並列に並べられて、それを的確に適切なかたちで受け止める能力は人間にはない気がする。

病院に行って思ったこと

乳がん検診に行った(定期検診。結果は問題なしだった)。

おととしまでは最寄駅の沿線の乳腺外科に行っていた。乳腺外科は予約を取るにも「一ヶ月先になります」みたいなことも多い。おととしまで行っていた病院は即日で診てもらえるけど、先生の感じが悪かった。感じが悪いというか、問題がなければこっちが何か質問しても「うるせーな」という対応(わたしがしつこいのもあるけど)。「これは…」「大丈夫です」「こういう時は…」「大丈夫です」のラリーを見た優しい看護師さんがわたしに詳しく説明してくれる。医者はこういう人も多いんだろうなーと思いながら「病院に行って検査をしたら問題なかった」という事実だけを心の支えにして帰った。

去年、なんとなく見つけた病院は家からは遠かったけど受付の人が優しく親切で、待合室もきれいでインテリアも素敵な空間でリラックスできた。何より先生が丁寧で、心配だと思うことやセルフチェックの仕方を教えてくれて、病院に来たという時点で少なからず不安な気持ちを持つ患者の気持ちを汲んでくれている感じがして好きになりかけた。先生がわたしの肉体を診察して問題ないと判断し選んで投げかけてくれた言葉がわたしを安心させた。という、正しいコミュニケーションが成り立っていた。

政治家の会見を見ていたら、今国民が何を不安に思っていて何を言ってほしいか、何が知りたいかわかってるのかなと思った。国民が言ってほしいことや知りたいことを言ってくれない以前の「わたしもかなり話下手だけど、それと同じくらい話が下手」ということにも「こんな人に正しい決断ができるのか…?」と思うし、医者とか政治家とかは、ちゃんと人の心が汲めて、言葉が上手に使える人であってほしい。

医者と政治家を並べるのはおかしいかもしれないけどそういうふうに思った。でも、医者が「心臓が悪いから足の手術をします」と言ったら何故そうするのか説明を要求できるし医者は理由を答えられるけど、政治家がわけわかんないことを納得できる説明なくやり出しても止めることができない(頑張ればできるかもしれないけど)の、たちが悪い。

小学生の作文のようなブログ。

aikoの曲を聴いて33歳の女が思ったこと

小文字界の巨匠、aikoの楽曲がサブサク解禁されたので聴いている。aikoの登場と思春期の訪れが重なっていた世代なので、aikoを聴いて(そういうことか!)と思っていた。

久しぶりにaikoの曲を聴いていたら、わたしが(大人がこんなこと考えてちゃいけない)と思っていたようなことを歌詞にしていた。大人になるととにかく現実にまじめに向き合わなければならないような気になっていたけど、aikoの曲を聴いて元気が出た(わたしは定期的に何かに感動してこんなようなことを言っている)。

杉作J太郎さんが「職場と家の往復の毎日で気が滅入る(重めのニュアンス)」という男性の相談に「女性もののパンティーを履いて寝てみたり、エロ本を買ってパラパラとめくってみたり、今までになかったものを生活に取り入れてみるといいのでは」と提案していた。わたしの生活はテレビとラジオとお笑いで構成されていてとても楽しいけど心の同じところしか刺激されていなかった気がするので、aikoの登場に死んでいた感情がくすぐられた。ありがとうaiko。でもテレビやラジオやお笑いにも感謝している。ありがとう製作者、出演者。

まとまりがなく、最後のほうどんどん雑になっていくブログ

タイトルの通りですが、文学フリマ(出れますように)に出すものを書く練習のために公開します。

 

人の体には血が巡っていて、内蔵されている内臓が動いたりして、あとは脳みそなども動いて、自分自身はなんの努力もしていないのに勝手に動いている摩訶不思議な仕組みの中に魂が宿って1人の人間として完成している。右手を動かそうとしたら右手が動いて、まばたきしようとしたらまぶたが動くの、そういうものだと思ったらそうだけど、なんでそうなるの?と考え出したら気持ちが悪い。生きれば生きるほど老いていく皮膚にこまめにクリームを塗って保湿したりするのも、何も考えずにやってるけど、すごく気味が悪いことのように感じる(やるけど)。幽霊は怖いけど、そもそも生きている時からこんなに不思議な人間が、死んだ後にどうなろうと生きて普通に存在している時の不思議さを超えることは不可能なので何も怖くない。

杉作J太郎さんが「近頃は時代の変化が急すぎて、それについていけない人が大変な思いをする」と言っていた。時代についていけない人を妙に肯定したり否定するような感じではなくて、少し前に当たり前だったことが今は「なし」になっていて、それに気づけない人が悪いというには時代の変化が早すぎる、というような言い方だった。それを言うと、大昔に決まった概念は大昔に決まったままずっと固定で、たとえば好きな人ができたら相手も同じくらい自分のことを好きになってくれることが恋愛感情の終着点で成功だということとか、それを「うまくいった」と言うけど、果たしてそれは本当にそうなのか?とか考えてるときりがないほど何もかも正しいと思えない。大昔に決まったということはそれが正しいという根拠にならないけど、それはゆるがぬ真実、みたいになっているのは不思議なことだと思う。女性に嫌なことを言ったら白い目で見られるようになったかもしれないけど、まだ「なし」になっていない嫌なことを男性に言う女性もいるし(わたしも言っちゃうし)、何かのカテゴリーに分類される人が楽になったり生きやすくなる世の中になったからと言って、全部がよくなっていっているということでは全くないなと思う。でも人間同士が交流するにはある程度、物事の認識が通じていることが必要だから、全員が好きなことを好きなように解釈していては成り立たない。

他の生物が人間を見て「すごいなあ」と思うところは、丈夫で大きな建物を建ててそれに「パルコ」みたいな名前をつけて人を集めたり、それを見た誰かが真似して「こちらもできました。ヒカリエです」とか言って、「それぞれ違うお店が入ってていいね」と言い合ったりできる、おいしいいちごを栽培できる、とかというようなところがすごいねってなってほしい。

被害妄想と佐久間宣行さんのラジオに出ていたキングコング

このあいだ、佐久間宣行さん(テレビ東京のプロデューサー)のラジオを聞いていたらキングコングが出ていた。

特に何も思わず聞いていたら、ボケの梶原の被害妄想(僕はあの時あのスタッフから嫌われていた、嫌われていると感じさせたスタッフが悪い、等)がひどく、あまりに暗くネガティブで、それをボケにするようなフリを投げる西野も面白すぎて笑ってしまった。

わたしは最近ネガティブで被害妄想が強くなっていて(このラジオを聞くまで自分が感じている辛さを被害妄想だとも思えなくて、被害妄想の可能性をわずかに残した現実としてまともに受け止めていた)、心の中で浮遊しながら少しずつ下に下がっていく精神の核をながめて、どこまで落ちていくんだろう…そして果てはどこなんだろう…と思っていた。

暗いしメンヘラだしヤバいけど、まだ自分を見失って完全に戻ってこれないような状態にはなったことがないので、そうなったら怖い。

前回こういう気分になったのは妹の結婚式の前日で、たった一人の妹の結婚式を明日に控えた姉、という気分ではなかった。

当日は会場の前で(そんな気分にはとてもなれないから結婚式には出ないで、ここですずめをながめて帰ろう…)と思ったけど、その時のわたしは元気がないものの、気の迷いという不確かなものでとった行動により失うものが多すぎると判断できた(そして失わなかったものを使って幸せになれる未来はまだあるという希望も捨てていなかった)ので、ちゃんと参加して、少し元気になった。

今回はすごく暗い気分で誕生日を迎えたけど、会社の親しい人達が祝ってくれてプレゼントをくれて、嬉しくて元気が出た。

そうやって少しずつ元気が出ていたところに冒頭のラジオを聞いて、梶原がどん底の時に感じていたという気持ちや人から嫌われていると感じる時の思考回路があまりにわたしと同じで、でも客観的に聞いていると(そして周りで聞いている佐久間さんと西野の反応を見ていると)「あはは笑」という感じだった。

梶原の被害妄想の話だけだったら「わかるw」くらいだったかもしれないけど、西野のことが嫌いではない佐久間さんが「西野の嫌いだったところ」として話していたのが「人が多い東京タワーでロケがあって、芸能人がいる!と騒ぎになったら困るからロケバスから出るなと言ったのに、気づいたら西野が東京タワーの下でウクレレを弾いていて騒ぎになっていた」とか「西野がマラソンにハマっていた時、ロケバスで移動するところを西野が走って移動していた」というエピソードだった。

わたしは被害妄想を捨てきれないと思うけど(思春期に筋肉少女帯を聴いていたせい)、心の中に西野のマインドを置いておこう…と思った。

人の笑顔を見ても(作り笑い25%の失笑75%だな)と思ったり、「ペンを雑に置いたってことはわたしへの苛立ちの現れだ」と思ったりしていた気分がかなり晴れた。

高井さん大丈夫かな…と心配されている知人の方がいらっしゃいましたら、Amazonスティックをくださったらかなり元気が出ると思います。